2004年11月29日 神戸新聞
The Kamigata / 座・上方
奥深い伝統の寄席芸
<女道楽>の内海英華。本名・田中愛子。大阪市生まれ。
高校生の時、講談師の旭堂南稜に弟子入り。
翌年、初舞台を踏んだものの、廃業。
81年、漫才師の内海カッパに師事し、82年、寄席三味線の桑原ふみ子の門下となり、
落語会などで寄席囃子の演奏を始める。
94年、寄席三味線の継承、発展の功績が認められ、大阪市「咲くやこの花賞」を受賞。
その後、「女道楽」として活躍を開始。
舞踊、演歌も得意で、南京玉すだれ、バナナのたたき売りなど余芸にも精通している。
趣味はゴルフ、演芸鑑賞。
聞き手・岡崎丈和
写 真・三浦拓也
ほんまに自分がやりたいことをやれるようになったことは、この7,8年。
「女道楽」いう寄席芸人をやり始めてからですね。
三味線を弾いて、端唄や都々逸を唄う。
それに、踊りなんかを組み合わせた芸を見てもらうんです。
明治ぐらいからの寄席芸ですけど、今では、知っている人もあんまりいません。
昔からのネタなんかをヒントに、自分なりに構成を考えてやってます。
最初、お笑い中心の大阪で、色物の芸が受け入れられるかとも思うたんですけど、
ある日、楽屋にお客さんが訪ねてきてくれて、「今でもしてくれはる人がおったんやね。
楽しかったわ」とご祝儀をくれはった。「うちの向かってる方向は間違ってない」って、勇気付けられました。
小さい頃、テレビやラジオをつけたら、必ず演芸番組をやってて、心がわくわくしたんです。
そやから中学生のころには、何が何でも芸の世界で生きようって思うてました。
高校では落語研究会をつくったり、結局、「女の弟子はとらん」と断られましたけど、落語家に弟子入り志願したり
どうしても芸人になりたかったから、高校三年生の時には、女性も活躍してた講談の世界に飛び込みました。
ただ講談師には、なれたんですけど、すぐに行き詰まって、で、おしゃべりのほかになんか
武器が必要やと思うて、三味線を習い始めたんです。
二十二、三歳の時。毎日三味線を肌身離さず、ですわ。
教わったのは落語のお囃子の師匠。
当時は、お囃子の三味線を弾ける人は少なかったので、すぐに落語会に呼ばれるようになりました。
失敗もあって、胃がキリキリ痛んで、胃薬を手離せない状態でしたけど、芸の世界に身を置けるのが、ほんまにうれしかった。
そんなときに見たのが、山田五十鈴さんの舞台「たぬき」。
昔、東京で活躍した女道楽の立花家橘之助さんをモデルにした物語です。
その舞台の中で「文福茶釜」をモチーフにした寄席芸の「たぬき」いうのんで山田さんがやりはった。
昔からのスタイルで、今に伝わってる数少ない女道楽の芸。もう感動しました。
長唄を唄いながら、曲芸みたいな弾き方をする。
なんか、三味線やなくて別の楽器を弾いてるみたいで、三味線で、ここまで弾けるんかとびっくりした。
うちも、こんな芸をしてみたい思うたんが、この道に入ったきっかけですわ。
舞台に出るようになってからは、昔、女道楽をやってはった、二代目(桂)春團治師匠の奥さまに「たぬき」を教わってるんですけど、
なかなか自分のものにならしません。
まだまだ芸の域にはいってへんのでず。
奥さまからは「この芸は品がないと見につかへんよ」と言われます。必ず「たぬき」を自分のものにしたいと思うてるんでず。