2006年11月20日 スポーツニッポン
センチュリーサロン
(大阪センチュリー交響楽団機関誌)(VOLUME 6)
内海英華さん
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これから始まる一席への期待を出囃子で盛り上げ、場面の情景や変化を音で表現する寄席囃子は、オペラにおけるオーケストラの役割と似ているかもしれません。
寄席三味線のトップランナーであり、しばらく絶えていた寄席芸”おんな道楽”の継承者として自らも舞台にも立つ内海英華さんを今号のゲストにお迎えしました。
● 伝統芸能の世界に入られたきっかけは?
大阪の子どもは小さい時からあたりまえのように松竹新喜劇や角座の中継などテレビで観てますでしょう。
私も典型的な大阪の子供のひとりだっただけなんですよ。まあ、どっちかというとテンポで笑わす吉本系の漫才よりも筋立てのある松竹のお笑いの方が好きでしたね。
中学まではスポーツ少女でしたが初芝高校に入学してプラスバンド部に勧誘されて・・・・。
いちばん持ち運びやすそうで、音も出やすそうなフルートを選びました。初めて吹いた時に意外にスット音が出たことを覚えています。
うちのプラスバンドで、一番好きだったのは「アルルの女」。とはいえ野球部の応援演奏に行くと「宇宙戦艦大和」とかピンクレディの「サウスポー」なんかを演奏してました。
だからいまでもこういう曲を耳にすると、真っ先に炎天下で暑かったことを思い出します。
でもフルートをやってたおかげで、寄席囃子で使う篠笛や能管も音が出るんですよ。プラスバンドやりながら噺家にもなりたくて落語研究会も作ったんです。
●それからはもう芸能の世界をまっしぐらに歩いて来られた?
いえいえ、当時は女性が古典落語を語るのは難しいというような風潮が強くありました。
自分でも女性の落語家に古典落語は無理、やるなら創作落語をやっていくしかないなあ、と思ってました。
そやけど自分には創作もんを創る才能がない、といったんは噺家をあきらめてしまったんです。そこでいろいろ思案して、
女性が活躍している講談なら女流の道が開いていると分かって、高校2年から講談教室に通い、高校3年生で旭堂南陵先生のところに入門したんです。
ところが講談に行詰まって1年間、芸界をはなれました。そして改めて、漫才の内海カッパ師匠に入門させていただきました。
当初カッパ師匠は、私を”音楽ショー”にさせたかったらしいのですが、私は”漫談”をやりたかったので師匠に相談したら「お前のやりたいことしたらええがな」とOKをいただきました。
それなら、と漫談のまねごとのようなことをやりながら舞台でお客さんの呼吸を諮っていくことを勉強し始めました。
基本的にはひとりの舞台なので、素手で行くより何か飛び道具があった方がええんちゃうか、ということで三味線を桑原ふみ子師匠に就いて習い始めたんです。
師匠は長唄の三味線の家元ですが、寄席三味線の人間国宝、林家トミ師匠のお手伝いをされた時期があったので寄席の三味線もご存じやったんです。
戦後間もなく寄席は復興したものの裏方が居ないので困ってはった米朝師匠から「落語会を助けてくれへんか」と頼まれて「私でお役に立つなら」と引き受けられたそうです。
師匠はそういう人ですから、その後もお金のない大学の落研の人たちにポランティアで出囃子を教えてあげはったんです。
私が師匠のところにお稽古に通い始めた時も「何の三味線からやってもええけど、まあ、とっつきやすい出囃子から練習してみたら」と。
そのうちに私が寄席三味線を習ってることを知った噺家さんから「お金ないけど来てくれる?」と頼まれて、私も「演習になるし、ご飯だけご馳走してくれたらいいよ」と行き始めたんが始まりです。
●それで”寄席三味線”と”おんな道楽”との二本立てをめざすことに?
”おんな道楽”という芸は、明治時代に始まったもんやと思います。
元になっているのが、踊り、唄、三味線などを担当する女性が何人か集まって舞台を勤めるというものです。花菱連というのがその代表格で人気があったそうです。
最近では吾妻ひな子師匠がその流れをくむ芸人さんです。私はやっぱり欲張りなんでしょうね。元々、表舞台に立ちたいという気でこの世界に入りましたから・・・。
寄席囃子は上方からはじまった。
●落語のお囃子の成り立ちについて教えてください。
座敷芸から発祥している江戸落語に対して、上方落語は神社やお寺の境内で囲いをこしらえてやったのが始まり。
つまり大道芸みたいなもんです。だから「今から落語が始まりますよー」と何らかの形で知らせる合図が要ったのです。
落語家さん自身が見台を叩きながら知らせたというのは有名な話ですが、それが発達したのが出囃子。だから寄席のお囃子いうのは上方が発祥なんです。
東京に伝わったのは、関東大震災で関西に逃げて来られていた東京の落語家さんとの交流によって上方の滑稽咄が江戸に伝わったのとおなじように、出囃子も本格的に伝わったといわれています。
落語家いうのは、前座から始まって後になるほどベテラン、大御所へと進んでいきます。
だから一人目がいちばんの前座さんなんですが、その出囃子はたいてい二上がりで軽快な印象の『石段』というのに決まっています。
なぜ『石段』というのかと言いますと、「石段を一歩一歩上がっていくように出世をしてください」というトップに出る新米の落語家さんへの激励の意味と、
「今日の寄席は後に行くほど楽しくなっていきますよ」と言う意味が込められているそうです。
ところが、おなじ『石段』でも東京には東京バージョンがあるんです。要するに誰かが大阪で覚えて東京へ帰って広めはったんでしょうが、
おそらく耳覚えなので正確には伝わらなかったんでじょうね。いま、東京の落語会に呼ばれますと「上方の『石段』が本家本元なので上方のでやって下さい」
というてくれはるのはいいんですが、間が違うので太鼓の方が迷われるんですよ(笑)。