平成14年8月9日 読売新聞
落語を支えるお囃子さん
ステージ・上方の落語家は年々増えて現在、200人近い。関西のどこかで、毎日のように落語会が開かれている。
そのほとんどに「お囃子さん」と呼ばれる三味線弾きの女性が同行する。
上方落語になくてはならない彼女らだが、人数はわずか14人。めったに表に出ないその素顔を追った。
三味線が高座をもり立て
「ドン、ドン、ドン」「チン、チン、チン」。若手落語家が鳴らす太鼓と鉦に合わせ、お囃子さん、吉崎律子が軽快な
撥さばき「シャン、シャン、シャン」と三味線を打つ。出囃子「石段」だ。高座に桂歌々志が上がると、観客が拍手で迎えた。
大阪・千日前トリイホールで毎月一日に開かれる「トリイ寄席」の始まりだ。
舞台の下手、階段わ三段下がった三畳ほどの場所に大太鼓、締太鼓が置かれ、三味線を抱いて座った吉崎もここから舞台を見守る。噺の途中で「はめもの」も演奏するからだ。
そのお囃子九人が六月、大阪・ワッハ上方演芸ホールの舞台に上がり、寄席囃子の演奏会を行った。戦前から戦後、第一人者 だった林家トミの三十三回忌追善興行だ。
前座用の出囃子「石段」から、中堅挌のために弾く「じんじろ」、真打ち挌に使う格調高い「都囃子」を披露。続いては、
上方落語 四天王の出囃子で、ドラや太鼓が加わる重厚かつにぎやかな曲は、六代目笑福亭松鶴の「舟行」。
桂米朝の「かっこ」、桂春團治「野崎」、桂文枝の「廓丹前」と演奏のたびに客席がわいた。
企画した林家染丸は「おトミ師匠のお陰で、滅びかけたお囃子が今日に残った」と話す。
音曲噺「蛸芝居」に使われる曲など、トミ が一人で伝えてきたものも多い。
トミの没後、お囃子の高齢化と後継者難を心配した染丸(当時、染二)は二十年前、「林染会お囃子道場」を設立。
吉崎もここに通っている。
現在使われている出囃子は、百二十から百三十。「はめもの」も百曲近くある。
お囃子は落語を熟知するだけでなく、三味線のほか長唄、地唄、浄瑠璃の素養も要求される。
「東京の落語にとってお囃子は、単なる飾りだが、上方では、なくてはならない存在」と染丸。特に違いが表れるのは
「はめもの」という。演者の「いつにかわらぬ陽気なこと…」というせりふに合わせ、にぎやかな「春の梅」を演奏する、
といった具合。観客に繁華街に来たことを分からせるためだ。
「生け殺し」と呼ばれる演出方法は、臨場感と立体感をもたらし、登場人物の心の動きまで表現する。例えば、御茶屋で
親子が偶然出会う「親子茶屋」の場合、旦那が二階で遊び始めると、にぎやかな「狐釣り」を演奏。場面が変わり、
若旦那が茶屋の近くを通りかかると、三味線の音を〈かすめ(弱め)〉、茶屋の二階を見上げると〈おやし(強め)〉。
若旦那が何を見て いるのか、何に気を引かれているのか、強弱で表現する。
「しぐさで表現する演者さんと同じ気持ちになって弾きます。お客さんがイメージしやすいように、
演者さんが演じやすいように」 と吉崎はいう。
噺家と一体 心情や場面を表現
林家和女は、桂小文枝(現、文枝)の「たち切れ線香」の「はめもの」にひかれて、お囃子の道に入った。
船場の若旦那に恋いこがれながら死んだ芸者小糸の話。小糸が死んだことを知った若旦那が、位はいの前で
悲しんでいると突然、三味線が鳴り、お囃子が地唄「雪」を歌い始める。クライマックスは、高座で若旦那を演じる落語家と、
下座で小糸を弾くお囃子の“二人芝居”だ。
和女は「今でも特に『たち切れ』は緊張します。
失敗するば、演者が四十分近く演じてきたものをすべて台無しにしてしまうから」と話す。
現在、上方で活躍するお囃子は十四人。
彼女らを引っ張っている内海英華は「三味線に興味を持ってもらえるきっかけになれば」 と三味線漫談「女道楽」で高座に上がり、都々逸なども披露する。
「お囃子は表に出ないが、芸に対する思いは噺家と同じです。」
客を華やかな上方落語の世界にいざなうお囃子。今日もどこかの舞台の下座で三味線を弾いている。
佐藤 浩