平成13年9月18日 朝日新聞
師匠と私(桑原ふみ子と内海英華)
上品な弾き方が信条だった
寄席三味線の若手有望株として、大阪市の1993年度「咲くやこの花賞」を受賞した内海英華(41)が三味線を志したのは、漫才の内海カッパに入門した81年のころだ。「何か一人で演じられるものをしたかった。
それには何か武器になるものがいる。三味線がええと言って紹介してもらったのが(桑原)ふみ子師匠でした」
大阪市東住吉区の団地の一室がけいこ場だった。
高校や大学の落語研究会(落ち研)メンバーや、噺家になる前の桂枝女太ら、大勢が習いに来ていた。
「師匠のけいこは長くても20分。向かい合って座って教えてくれるんですが、
それ以上、座ってたらしびれが切れるだけ、頭に入らん、そう言うてました」と英華は言う。
「だんだんと弾けるようになってくると師匠は、文枝師匠や松鶴師匠の若手の会などに連れていってくれて、
はめもの(落語の途中に入れる三味線などの演奏)の勉強も、実地に指導してくれました」
長唄出身で、きちんとした上品な弾き方を信条にしていた。三味線方として独り立ちした英華にはこんな思い出もある。
「深夜のテレビの落語会で出囃子を弾いた。現場の感覚で弾くもんだから、どうしても教えられたものとは違ってしまう。
テレビを見ていた師匠から電話が入り『よそさんは知らんけど、うちでけいこした子はうちのようにしてくれないと』と言われました」
背が高くてスマートで若々しかった。若いころハードルの選手で、そのころの写真をうれしそうに見せてくれたこともあった。
「食が細かったがある時、一口カツを三つ食べられた。そしたら『見て、見て、こんなに食べられた』と大はしゃぎ。
周りのみんなも『えらいなあ』言うて。70近いおばあちゃんが子どもみたいやった。
桃山学院大学1年のころから習いに通い、銀行勤めの後にプロになって9年という住田益子も言う。
「部屋には手をたたいたり、音楽が鳴ったりしたら踊る人形があり、ぬいぐるみもいっぱいあって、そんなおもちゃを見ておもしろがってた」
英華や住田らのようにプロになったのはごくわずかだが、数百人の弟子がいたという。
大勢から慕われ、亡くなって6カ月後の94年4月には、思い出や公演記録などを集めた「大阪亭 おっしょはん追悼号」が編まれている。
(発行・大阪大学落語研究部OB)
今、英華は三味線を抱えて舞台に座り、都々逸やおしゃべりで笑わせる「女放談」でも活躍する。
「三味線というこんないい相方を与えてくれた。それが、ふみ子師匠です」
桑原ふみ子 くわばら・ふみこ(1918~1993)
幼少のころから三味線に親しみ、長唄三味線・杵屋柳翁(きねやりゅうおう)を名乗る。
47年に開場した「戎橋松竹」で寄席三味線の下座を務めた。
80年ごろから大学などの落語研究会会員に寄席囃子を指導し「翠会」を主宰、
年1回発表会を開くなどし、プロ、アマを問わず後進を育てた。