平成7年6月13日 読売新聞
大阪府和泉市出身。家出同然で旭堂南陵(講談)にでしいり。
三味線の師匠は故桑原ふみ子。
昨年「咲くやこの花賞」を受賞。
5人の弟子に、繰り返し「根性で弾かなあかん」。34歳。
高座前のリハーサル。
パンと打った拍子木を合図に場面が変わり、にぎやかな三味線と太鼓の音がはいるところで若手がそでから飛ぶ。
「お囃子は気にせんとき。キッカケはこちらでつかむから、噺に集中しぃ」 ギクリ場が締まった。
今度は声が優しくなる。「もういっぺん、やりまひょか」 上方の寄席三味線は8人。
「陽の当たらぬ裏方」のイメージをこの人が変えた。「舞台に、裏も表もおまへん。
演じ手と一緒にこさえている感じですわ」少女時代。「ケッタイの子でしたやろな」。
周りがアイドルに夢中になっていたころ、三代目桂春団治にほれ込み落語のネタ繰りに熱中した。
高校卒業後、当たり前のように芸の道に。
三味線を覚えたのは22歳、漫才の内海カッパ師匠に弟子入りしてからだ。
「相方が見つからんし、何か芸があったほうがええなあと思ったから」 スナックでアルバイトして、芸人と朝まで飲み通してから稽古。
「思てたよりも難しかったんです」。腕力をつけるために腕立て伏せも。指に血がにじむこともあった。
ものをいったのは、芸の蓄積。
ほとんどの演し物は頭に入っているし、若手から大御所までたいていの芸人と軽口をたたきあう仲。
なにげなく、間や息を盗んだ。
いつしか評判がたち、三味線が本業みたいになっていた。しかし枠に収まる気はさらさらない。
女放談もやれば、都々逸もうなる。
落語家と即席の漫才コンビを組み、クラシックやジャズのセッションをしたこともある。
夢は大きく人間国宝。「この世界で長生きしてたら、なれましゃろ。悪いことさえせんかったら」。
洒落と本音をないまぜに。粋に、軽やかに、芸の世界を泳ぐ。(岳)